すぐばれる嘘を吐く人が増えた

前回のコラム(第90話:経営で「やりたいこと」「やるべきこと」より重要なこと)において、自己完結的な「やりたいこと」「やるべきこと」を偏重する傾向が、個人から企業経営の中まで波及していることを話ました。

 

その一方で、他者の存在を視野に入れて、その他者のニーズを見出し、ニーズに応えるために自社の「やれること」あるいは「できること」を提供していくという姿勢が希薄になっているという指摘もしました。

 

そして、「やりたいこと」「やるべきこと」に過剰に力点を置いた経営は、社会における自社の立ち位置を見失い、営利行為ではあるけれど公共性を帯びている企業活動の本質を見失うことになり、結果として不祥事や不正行為の温床になる可能性を示唆しました。

 

一部上場企業や国会議員が不祥事や不正行為を起こしたとき、その理由が幼稚で、大義に欠けた自己都合丸出しの内容であることが多いのは、こうした「やれること」を軽視し、自己完結的な「やりたいこと」「やるべきこと」主導の経営や政務が行われているからだと思います。

 

さらに最近の傾向として、不祥事や不正行為が発覚したときに、すぐばれる嘘を吐く人が明らかに増えています。

 

メディアによって事件性がある含みで一報がなされると、張本人は、とりあえずその場しのぎの「すぐばれる嘘」を吐いて時間稼ぎをして、二進も三進もいかなくなったところで「わたく、実は嘘を吐いていまし」とカミングアウトするというパターンです。

 

『警察密着24時!』のようなドキュメンタリー番組っぽく作られた警察のイメージアップのためのプロモーション番組を見ていても、職質されたり逮捕されたりしたときに、十中八九「そんなこと知りません」「何のことかわかりません」とシラを切る人ばかりです。

 

元兵庫県議員の野々村竜太郎氏が、釈明会見で泣いたり、意味不明のことを叫んだりいう奇行に出たのも、事実を突き付けられているのにも関わらずシラを切り通すパターンに当てはまります。

 

先日3度目の不祥事が発覚した三菱自動車が開いた記者会見で、トップである相川社長は、「誤っていると認識しながらやっていたのか、20年以上前のことでよくわからない」「はじめた時には『これでいいんだ』と思ったのが伝承され、疑わずにやっていたのではないか」という発言をしていました。

 

この「わからない」を簡単に口にする当事者意識の欠如や他人事(ひとごと)のような伝聞調の語り口には、広い意味で「すぐにばれる嘘」を吐く心理と同根のものがあります。

 

こうした状況を見るつけて、日本の社会において「すぐにばれる嘘」を吐くことに対する心理的抵抗がどんどんなくなってきていることは、間違いありません。

 

ものごとの変化のスピードが早くなりすぎて、先のことを考える余裕がなくなり、しまいには習慣すらなくなったことが、その理由でしょう。

 

分かりやすいのは代議士です。

 

選挙の時は、天下国家を論じる立派なマニフェストを掲げ、その大義のために命を賭すくらいのことを叫んでいますが、一度議員になってしまえば、頭の中の大半を占める懸案事項は、次の選挙で再選できるかどうかです。

 

最長で4年、うっかりすると1年で解散になり、その間に目に見えた成果をあげていないと、次の当選はおぼつきません。

 

だから、マニフェストで10年先の未来の話をしていても、本当のところは、そんな先のことは考えてもしかたがないと思っているに違いありません。

 

共同体の崩壊と主観的寿命の縮減

でも頭ごなしに、そうした姿勢を批判したいわけではありません。

 

ここで重要なキーワードは、生命体としての寿命の縮減と、共同体的価値観の衰退と市民社会的価値観の亢進です。

 

人であれ組織であれ、その寿命が100年の生命体としてふるまうとしたら、いま良い思いができるけれど、10年後に手痛いしっぺ返しがくることが確実であるようなことはしないでしょう。損得勘定に合わないからです。

 

一方で、寿命1年の生命体として振る舞うならば、10年後に受けるペナルティはないのと同じです。

 

日本人の平均寿命は伸び、日本は世界一長寿企業が多い国になったけれど、そうした客観的な事実とは裏腹に、主観的な寿命はどんどん縮んでいるように思えてなりません。

 

かつて人間は、「個」として生きていたわけではなく、主観的にはサイズの大きい寿命の長い生き物でした。

 

なぜなら、人間の歴史においては長らく、先ず社会(集団)があって「個」がいるという考え方をする共同体的発想が強かったからです。

 

世の中には、親族共同体、地域共同体、学術共同体、政治団体、株式会社・・・などが多数存在して、それぞれの共同体には複数の人が属し、複数の世代にまたがる寿命の生命体でした。

 

個体としての自分はいずれ死ぬが、自分も先行者から引き継ぎ、後継者に受け渡す共同体は、個人の生死とはかかわりなく生き、そして死ぬことになります。

 

自分自身ののアイデンティティの根拠を個人よりむしろ共同体における集合的自我に重点的に置く人がいたら、その人は生物学的寿命とは関係なく、寿命の長い視野をもった生き方をするはずです。

 

近代以前まで人々は、地縁、血縁、あるいは職業などに根差す集団的自我を形成し、3世代で100年を主観的寿命とする生命体でした。

 

そのような意識から生まれて来た考え方が、家名を辱めないとか、郷土の誇りとか、職人気質といったものですが、これらは単に集団の結束を強めるためにだけに掲げられた原理ではありません。

 

無意識に、自分一人の損得ではなく、寿命の長い生命体として考え行動しろという行動規範を遵守する動機になっていたのです。

 

ところが、核家族化が進み親族共同体も、地域共同体も崩壊しました。

 

それに伴って共同体的価値観も衰退したのですが、子どもと老人という両極端な世代に、その影響がありありと反映されています。

 

教育現場で共同体的価値観が衰退し、代わりに市民社会的価値観の亢進することで、教師と生徒の関係性が「贈与」から「等価交換」へと変化したという指摘が、『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著 2005年中央公論社)の中でされています。

 

この本の中で、喫煙をしている現場を発見されたにも関わらず断固として喫煙の事実を認めない生徒と、試験中にカンニングペーパーを発見されたにも関わらず一切カンニングの意図も行為も認めない生徒の話が出てきます。

 

そして、一昔前の不良との決定的な違いを、こう書き記しています。

 

 

80年代以前のワルたちは世の中や学校の基準値に馴染めない自分を発見して、あえて独自の自己基準を立てていた。

 

彼らは世の中的な学校的な価値観がどのようなものかを知っていたが、同時に自己の生きざまとの不調和も意識していた。

 

世の中的な学校的な基準と自己との距離を測って生きていた。

 

だから、昔のワルはわがままを承知で自己主張したのである。本人もそれを知っていた。

 

 

ところが、本の中で出てくる喫煙した生徒やカンニングした生徒は、「自分の思っていること、自分の判断していることは、ほかのみんなにも通用するはずだ」と思っている。

 

ここでは、主観と客観の近代の二分法はもはや成立せず、「自分こう思う」ことは、みんなも同じように思っているに違いない(あるいは、思うべきだ)と確信している昨今の子どもたちを、「オレ様化」していると表現しています。

 

そして、教師と生徒との関係は、学校共同体における「贈与」を主体としたものから、消費社会と同じく「等価交換」を核とした「取引」へと変化しているために、事実を目前に突き付けられているにも関わらず、事実そのものを否認することになるのです。

 

なぜなら等価交換においては、自分の行った行為とそれに対して下されるペナルティが釣り合う必要があるので、もし想定されるペナルティが受け入れがたい場合は、事実そのものを「なくす」か「できるだけ小さくする」ことで、自分の考える公正さを確保する必要が、オレ様化した子どもたちにはあるからです。

 

一方の老人世代については、『老人たちの裏社会』(新郷由起著 2015年宝島社)にて、万引き、暴行、ストーカー、売春などが横行する不良化した高齢者世代について、リアルに描き出されています。

 

この本のまえがきには、こう書き記されています。

 

 

半グレ化する不良老人が急増している。

 

高齢者の検挙数はこの20年ほど右肩上がりの傾向にあり、高齢者による殺人や暴行、性犯罪などの事件報道もまるで珍しくなくなった。

 

ほんの少し前まで、老人は善良かつ穏やかな人徳者として重んじられ、敬い、守るべき社会的弱者ととられられていた。

 

ところが、今や街では万引きをしまくり、激高しては暴力に訴え、勘違いを募らせてはシニアストーカーに転じ、「死ぬまでセックス」とばかりに色欲にハマるなど、「若者のお手本となる先人」どころか、老害を撒き散らすだけの暴走ぶりが目立つ。

 

 

老人達が変化した理由は、個々人の人格陶冶だけの問題ではなく、共同体が崩壊し、同時に共同体の価値観が喪失した社会において、老人達が文字通り「寿命の短い生命体」として考え行動した結果、同じくオレ様化したからです。

 

好々爺(こうこうや)という昔ながらのイメージは、共同体の価値観を体現するという無意識に刷り込まれた高齢者の使命感があってこそ、はじめて実現されることなのです。

 

企業でも進む「オレ様化」

子どもや老人が「オレ様化」する現象は、よく考えると、企業という組織の中でも同じく起きているとことに気付きます。

 

  • 陰で天皇と呼ばれ、他人の意見には耳を貸さず自分の考え方は絶対だと思っている「オレ様化」している社長
  • お客様第一など建前で、本音では顧客の利益よりも自社の利益を優先する「オレ様化」している会社
  • 会社がどうなるかに興味はなく、自分がやりたい仕事を楽しく出来れば満足な「オレ様化」している社員

 

そもそも言葉の定義を整理すると、社会(集団)があって「個」がいるという考え方をするのが「共同体的」であり、まず「個」がいてそれが集団や社会をつくるという発想をするのが「市民社会的」ということです。

 

高度経済成長期までの日本企業は、共同体的発想を強く持っていましたが、最も強かったのは、家族や企業という単位以上に、敗戦国である日本という共同体を何とか復興させようという意識でした。

 

しかし、1980年代に入りジャパン・アズ・ナンバーワンと評され、消費社会において消費主体としての「個」のアイデンティティが高まるとともに、市民社会的価値観が優勢となりました。

 

さらにバブル崩壊後、共同体のパフォーマンスをあげるためには、個人を成果によって格付けさせて競争させるのが良いと考え、企業という共同体に積極的に市民社会的価値観を導入しました。

 

でも、本来は背理する市民社会的価値観を共同体のパフォーマンスアップのために導入すること自体に、そもそもの論理的破綻があったことに、多くの経営者は気付いていませんでした。

 

結果的に共同体の崩壊を招き、「個」に分断された経営者以下の構成員は、サイズ的にも時間軸的にも小さな生命体になったことで、3世代100年の世界観で考え行動することが、極めて難しくなったのです。

 

結果的に「やりたいこと」「やるべきこと」に重点的に取り組み、「やれること」を等閑にし、主客の区別のない自己中心的な行為が不祥事を招けば、臆面もなく「すぐばれる嘘」を吐いてその場しのぎをするという、最近よく目にする経営スタイルが瀰漫してきたのではないでしょうか。

 

市民社会的価値観が支配する企業を共同体へ戻す難しさ

企業内のドメスティックな価値観がまかり通り、世間の感覚とはズレた行為が不祥事を招くと、「閉鎖されたムラ社会がもたらした」などと解説するコメンテーターがいます。

 

それは、共同体的価値観が強くなり過ぎると、回りが見えなくなって問題が生じるという指摘がしたいのでしょうが、よく考えてみると、全く逆の話です。

 

つまり、共同体的発想が出来ていれば、主観と客観の違いが自覚されているので、仮に世間の常識とはかけ離れた行為があったとしても、「これは、一般的にはおかしなことだ」とか「うちは、この点については、他とは変わっている」という認知を得られるのです。

 

だから、仮に何か問題が生じても、すぐばれる嘘を吐いてその場しのぎをすることはなく、一昔前の不良さながらに事実を認めること自体は吝かではないはずです。

 

しかし、市民社会的発想となることで、主客の区別がなくなると、実はとんでもないことをしでかしていたとしても、「こんなことは普通だ」とか「よそ様も同じでしょう」という主観=客観の世界になる危険性が出てきます。

 

経営環境が長らくパッとしないので、企業業績を改善する方策として、「企業理念を明確にして共有する」「ビジョンを描いて将来イメージを掲げる」「商品はスペックではなくストーリーを持たせる」などが流行っています。

 

それぞれのやり方自体に是非はありませんが、かつて共同体のパフォーマンスを上げるために市民社会的価値観を導入したのと、同じ轍を踏んではいないでしょうか。

 

いまや市民社会的な価値観が支配的な企業組織において、いまさら共同体的価値観を単なる方便として持ち込んでも、深く根付くことはありえません。

 

戦略的なオプションやマーケティング的な手法としてではなく、人として企業として、どのような生命体を目指すのかという、かなり大きな課題が突き付けられているのです。

 

熟考ののちに、3世代100年の生命体として経営者個人としても企業組織としても生きるという真の共同体的価値観を最優先するという覚悟があって、はじめて理念やらビジョンやらミッションを共同体のエンジンンに据えることに意味が出てきます。

 

厳密に言うと、共同体的であるか市民社会的であるかは、二項対立した価値観ではなく、現実には人の中でも企業の中でも、双方の価値観が混在しています。

 

一番重要なことは、そうした事実に自覚的になり、自身の状態を適切に把握することですが、特に主客が区別されづらくなった市民社会的な価値観が優位な状況では、自らを客観視することそのものが難しくなっているために、自己分析がうまく進まないということに言い及んでおきます。