就活でも重要な「やりたいこと」「やるべきこと」

2017年春卒業予定の大学生らの就職活動が本格的にスタートして、2ヶ月がたちました。

 

企業研究や面接の準備期間が3カ月間に短縮されたことで、今年は「短期集中」という言葉がメディアをにぎわしています。

 

今年は、会社説明会の解禁時期は昨年と同じ3月1日でしたが、面接などの選考解禁が昨年よりも2カ月前倒しされ、6月1日となりました。

 

そのため、企業研究や面接のための準備期間が3ヶ月に短縮されたことになり、「短期集中」という言葉がメディアをにぎわしています。

 

一方で、昨年就職活動をして今春新たに社会人生活を始めた新入社員が、入社後2ヶ月足らずで辞めたという話しも、メディアで目にする時期でもあります。

 

就活生にとっても新入社員にとっても重要なキーワードは、自分の「やりたいこと」です。

 

就職活動が成功したかどうかは、有名一流企業から内定がもらえたかどうかも重要ですが、自分の「やりたいこと」をしっかり分析したうえで、その実現にマッチした企業を探し出して内定を勝ち取れたかどうかの方が、満足度の要因としははるかにウエイトが高いはずです。

 

そして、自分の「やりたいこと」を実現できる場として入社したはずの会社だったのに、希望とは異なる部署に配属されたうえに、お茶くみやコピー取りのようなくだらない仕事をさせられると、自分の「やりたいこと」とは違うとして、早々に会社を辞めていく新入社員がいます。

 

その行動は、「やりたいこと」が出来ないこんな会社に長居をせずに早々に辞めるべきだという、「やるべきこと」への判断が背景にあります。

 

やっぱり、今の若者は自己中心的で、「やりたいこと」「やるべきこと」にしか興味がないのでしょうか。

 

ところで、「やりたいこと」「やるべきこと」に似ている別の言葉に、「やれること」がありますが、当世の若人のストーリーでは出番が少ない言葉です。

 

だとすると、当世の若人は、「やれること」には興味を持たないのでしょうか。

 

ただし、今の若者を批判したいわけではありません。思い返してみれば、自分の就活のときは、「やりたいこと」すら必ずしもハッキリしていませんでした。

 

「やりたいこと」「やるべきこと」と「やれること」の違い

「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」という3の「こと」の存在が分かりましたが、それぞれの特徴と相互の違いとは何なのでしょうか。

 

色々な考え方が成り立ちますが、「やりたいこと」「やるべきこと」は個人的なことで、「やれること」は社会的なことであるという特徴と違いがあると思います。

 

個人的なことは、他人との関わりや承認を抜きにして自己決定できますが、社会的なことというのは、他者の同意や許諾なしでは決定し得ません。

 

たとえば、「今日のランチに豚カツを食べたい」は「やりたいこと」です。そして、「今日は不燃ゴミの日だから、朝8時までにゴミ出しをしなければならない」は「やるべきこと」です。

 

この2つに共通しているのは、仮に他人がこの発言を聞き及んだとしても、「ああ、そうですか」と言えば済むことです。

 

「自分の欲望を自分で満たすこと」や「自分に対する期待を自分で達成すること」の主語は自分であり、動作の目的も自身に対してなので、自己完結する行為と言えます。

 

一方で、「やれること」「できること」は、そう簡単には完結しません。

 

「私は、”これ”ができます」という宣言は、「これ」が他人によって必要とされている場においてしか意味を持たないからです。

 

飛行機に乗る前に「私は医者です」という能力の申告をしたところで、フライト中に病人が出て「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいますか」というCAからの要請がない限り、意味をなしません。

 

「ニーズ」が発生してはじめて「できること」の意味が発生する。ここに、社会的な「できること」の特徴があるのです。

 

「私はダイエットがしたい」「私はダイエットをしなければならない」という独り言はあり得ても、「私はダイエットをすることができる」と鏡の前の自分に言い切ることは、普通しません。

 

最近では、そういう自分に対する可能性を自身に言い聞かせることをアサーションとかいって、一部の意識高い系の人々の間では流行っているのかもしれませんが、誰も聴いていないにも関わらず可能性の発言をすることは、普通は変ですし意味がありません。

 

さて、ここまでの話でお分かりかと思いますが、若者がもっぱら「やりたいこと」「やるべきこと」に興味と関心を向け、「やれること」への意識が希薄なのは、最近の若者だけの特質ではありません。

 

どの時代においても、大人は若者に対して最初は大した期待は抱いていません。

 

他者の「ニーズ」がないところで、「私は、”これ”ができる」という可能性の申告をしても意味がない以上、「やりたいこと」と「やるべきこと」に傾注するのは、当然のことなのです。

 

裏を返すと、若者と大人の境目は、「できること」を語れるかどうかにあることになります。

 

その前提は、他人から「ニーズ」を突き付けられていることですから、他人から何らかの期待をされることが大人の条件なのです。

 

しかし、「今の若者は・・・」と嘆く人間は今の世の中にもたくさんいますが、果たして、その人たちは本当の「大人」と言えるのでしょうか。

 

「できること」を語れる本当の「大人」は、自分に要請されているニーズを、正確に理解したうえで、その実現に真摯に取り組む人間のはずです。

 

ニーズを誤解したり、ニーズを理解しつつも軽んじる人間は、「できること」について何ら語ることがないという意味で、若者と同じ存在になります。

 

「やりたいこと」「やるべきこと」が優先され「やれること」が軽視される社会

最近メディアが取り上げている不祥事を見ていると、結局のところ、いい大人が自分に対して要請されている「ニーズ」を無視して、「やれること」に優先的に取り組まず、「やりたいこと」や「やるべきこと」の実現に躍起になった結果だという共通点があることに気付きます。

 

東芝の不正会計事件、三菱自動車の燃費データ不正事件、政治家の不倫事件・暴言事件、コメンテーターの経歴詐称事件、それぞれ事件のディテールは異なっているように見えても、事件が起きる根本的な仕組みは同じなのです。

 

また先日、発生した熊本地震の現場でも、ボランティアで訪れる一部の人々の行動が問題視されています。

 

汚れ仕事を嫌がる、仲間同士のおしゃべりに夢中で仕事をしない、倒壊した建物を背景に記念写真をとるなどです。

 

本来ボランティア活動とは、真っ先に被災者の「ニーズ」があり、それに応えて「やれること」を行うという大人の行動のはずですが、こんなところにも「やりたいこと」「やるべきこと」を優先した思考と行動原理がはびこり始めています。

 

さらに、知識も経験も他の世代よりも豊富であるがゆえに「やれること」への貢献可能性が高い老人の中に、「やりたいこと」「やるべきこと」を優先して、恫喝をしたり手を挙げたりする暴走老人が増えていることも、同じ風潮の中に位置付けることができます。

 

企業においても、ミッションやら理念やらを明文化して、社内で共有し、自社サイトに公開して広く世の中に発信することが普通な世の中になっています。

 

でも、そうしたミッションや理念を読むと、ほとんどが「やりたいこと」「やるべきこと」について語っているだけで、社会からどういう「ニーズ」を要請されていて、それに対して「やれること」が何かについて語っていることが少ないのです。

 

この原理に自覚的にならないと、一生懸命仕事をしても、いやむしろ一生懸命仕事をすればするほど、気が付けばとんでもないことをやらかしていたという結果になりかねません。

 

自己実現が大切だと信じられている今の世の中だからこそ、あえて企業活動においても、「やりたいこと」「やるべきこと」以上に、社会は我が社に何を求めていて、それに対して何が「やれること」なのかという大人の視点を、経営の中にしっかりと落とし込むことの重要性が高まっているのです。

 

なぜ、このように「やりたいこと」「やるべきこと」が偏重されて「やれること」が軽視される事態になったかについては、次回第91話のコラムで述べます。