1 貧困と貧乏の違い

前回の記事(第27話:ピケティ『21世紀の資本』で考える貧困と貧乏①)において、どうやら資本主義先進国では格差が拡大しているらしいけれど、日本の場合少し様子が違うのではないかという話をしました。

 

どのように様子が違うかというと、高所得者の割合は増えていない一方で、中間層が解体されて低所得層に移行しているということでした。

 

そのうえで、日本における課題は「貧困」ではなくて「貧乏」ではないかという提起をしたわけです。

 

最初に言葉の問題を整理しておきたいと思います。「貧困」と「貧乏」というよく似た言葉がありますが、その違いをどのように定義したらよいでしょうか。

 

私見では、「貧困」は経済的問題ですが、「貧乏」は心理的問題になります。。

 

細かい分類方法は脇に置いて大ざっぱに言うと、日本では世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別されます。

 

一方世界に目を向けると、家族1人あたりが1日1ドル以下で生活している世帯(5人家族なら、年収でおよそ1800ドル以下)の数は、およそ12億人で世界人口(68億人)の約17%います。さらに1日2ドル以下の生活者になると、世界の約半数(30億人)にまで増えると算定されています。

 

1日2ドル以下とは日給240円になりますが、この場合は、どのような個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、小作農の家に生まれた子どもはその境涯から逃れることは事実上不可能です。その意味で、これを「絶対的貧困」といいます。

 

日本における一世帯年収200万円はその意味では「絶対的貧困」とは言えません。

 

その支出に教育費が含まれていて、収入が主に賃金労働によって得られているなら、それは世帯構成員たちがこの先、個人的努力によって知的素養や芸術的資質を開発したり、業務上の能力を評価されて昇給昇進する機会が残されているということを意味するからです。

 

だから、日本で社会問題となっているのは「貧困」ではなく「貧乏」であると考えた方が良いことになります。

 

屋根と壁のある家に住み、定期的収入が確保されていて、教育機会や結婚出産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態を「貧困」とは言うことはできません。

 

アイツはBMWを持っているけれど、俺は軽自動車である。お隣は夏休みにハワイに行ったのに、うちは常磐ハワイアンセンターである。あちらにはロマネコンティを飲んでいる人がいるのに、こっちはホッピーであるという仕方で、所有物のうち同一カテゴリーに入るモノを比較した時に、相対的劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのです。

 

近代以前には「貧乏」は存在しませんでした。農民が大司教の装束と自分の衣服を比較して恥じ入るとか、木こりが王侯貴族のような城館に住んでいないことを気に病むというようなことは起こらなかったのです。

 

なぜなら、社会的棲み分けが行われていたからです。猫がライオンを見ても「あんなに大きくなりたい」とは思わない(であろう)のと同じことです。

 

貧困は大昔から存在した状態ですが、貧乏は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」と宣言したフランスの『人権宣言』によって、皮肉にもはじめて出現した状態なのです。

 

「生まれながらに平等であるはず」であるにも関わらず、権力や財貨や情報の所有において現に個人差があります。それを「苦しみ」として感じるのが「貧乏」です。つまり、「貧乏」とは近代市民社会が生み出したあだ花なのです。

 

「貧乏」とは、自分が特定の何かを所有していないという事実によって生まれるのではなく、他人が所有しているものを自分が所有していないという比較行為をすることで、はじめて感知される欠如感であるという特徴を持っています。

 

日本は高度経済成長を経て、「貧困」から抜け出して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えたのです。

 

2 資本主義経済が求める貧乏人

私が大学生の頃はバブル景気前夜でした。その頃手にして悦に入って読んでいた本に『見栄講座』(1983年ホイチョイ・プロダクション)と『金魂巻』(1984年渡辺和博)があります。

 

この2冊の本が歴史上エポックメイキングな存在である理由は、日本人の多くが貧困から抜け出した代わりに、貧乏を感じ始めていた世相を見事に表していたからです。

 

特に渡辺和博氏が『金魂巻』にて「〇金(まるきん)」「〇ビ(まるび)」という二分法で、「ビンボ臭い」というのはどういう振る舞いを示すのかを論じてベストセラーになったことは、もはや社会問題としての焦点が、「貧困」から「貧乏」に移行しつつあることを示したと言えます。

 

この本の副題が「現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造」となっているように、作中で「イラストレーター」「コピーライター」「ミュージシャン」など先端的でお洒落(と見なされている)職業に就いている人たちの「〇金」「〇ビ」識別法をアイロニカルに教え示しています。

 

年収の多寡はもうここでは識別指標ではなくなっています。なぜなら、「〇ビ」の特質は「他人のメンタリティを羨む」というメンタリティそれ自体だからです。

 

クリエイティブでイノベーティブな「〇金」の人々は自らの規範に従い、自分の欲望に忠実です。一方、模倣的で追従的な「〇ビ」の人たちは、他人の欲望に感染します。

 

したがって、『金魂巻』など読んで「〇金」と「〇ビ」の識別法を学習しようとする態度それ自体が、「〇ビ」であることの特質を端的に表しているのです。

 

1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」という宣言とともに、日本が中進国から飛び立ったあとの社会において、貧困はもはや深刻な社会問題ではなくなりました。

 

もちろん貧困な人々は依然として存在していますが、貧困問題とは言い換えれば社会保障制度のもとで「税金をどう使うか」という行政上のタスクに過ぎません。公正で優秀な役人がいさえすれば理論的に十分にマネージ可能な問題です。

 

一方で、貧乏の方は、理論上も処方箋を持たないという意味で、日を追って重大な社会問題となっていると思います。

 

なぜなら、貧乏は記号的な性質を持っているために、治療の処方が難しいからです。

 

貧乏は己の相対的劣位を感知し、自分は「貧乏だ」と規定する自己意識が生み出しています。

 

だから、政府がどれだけ税金を投じても「貧乏人」を富裕にすることができません。

 

なぜなら、彼らはどれほど富裕になっても、自分の財布から税金を払って「貧乏人を富裕にしてやった」納税者たちに対する相対的劣位に苦しむことを止めることができないからです。

 

誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできません。そして、大変困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのです。

 

市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄えます。実際は富裕でありながら、なお自分は貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者です。

 

だから、企業もメディアも、消費者に向かっては「あなたが当然所有してしかるべきものをまだ持っていない」という言い回しで欲望を喚起することを止めません。

 

ナイーブな人々はその囁きをそのままに信じて、おのれの財政状態に関わらず「私は貧乏だ」と考えて苦しむことを止めません。そのようにして資本主義は今日まで繁昌してきたのです。

 

しかし、もし人々が一宇の草庵を結び、庭に自生する草花を食み、囲炉裏に薪をくべ、草笛を吹き、詩を吟じ、朋友と数合の濁酒を酌み交わして清談をすることに深い喜びを見出すようになれば、日本経済はたちまち火の消えたように萎み、瞬く間に日本は後進国へなり果ててしまうでしょう。

 

他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる「自前の欲望」の声に耳を傾けることの出来る人は、それだけで既に十分に豊かと言えます。

 

なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えませんが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからです。

 

自分はいったいどのようなものを食べたいのか、どのような肌触りの服を着たいのか、どのような気持ちで一刻一刻を過ごしたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることの出来る人は、求めるモノの「欠如」を嘆くことがあっても、「貧乏」に苦しむことはありません。

 

日本社会はこのような能力の開発のためにほとんど投資をして来ませんでした。そのようなものにリソースを投じたら経済成長が鈍化することが分かりきっているからです。

 

貧乏意識の高さは、「万人が平等」であるという市民社会原理のコストであり、市場経済の駆動力でした。

 

しかし、日本人の意識はどんどん貧乏になっていっても、資本主義がますます繁昌する時代ではなくなりつつあるのが今日の課題です。

 

3 金がないから売れないのではなく・・・

日本人の貧乏人意識が全国民に浸潤していっても、資本主義がますます繁昌する時代ではなくなりつつある理由は、多くの生活者にとって欲しいものがなくなりつつあることです。

 

「不況だからものが売れない」と口に出す経営者の方がたまにいますが、不況だから売れないのではありません。先ずはこの誤解を認識するところからスタートしなければならない。

 

景気が良くなれば売れるようになるのではなく、売れるから景気が良くなるのです。そして、景気を良くするのは政治家ではなく、経営者の仕事です。

 

我々は無意識に誤った考え方を刷り込まれてしまっている結果、「金がないから買えない」「安いものしか売れない」という現状認識を思考の前提にしています。

 

本当は、金がないから買えないのではなく、欲しくないから買わないだけです。

 

だから、欲しいものであれば買う。

 

たまたま先日(2月24日)まで中国の春節休暇でしたが、昨年以上に多くの観光客が来日して家電製品や食料品などを「爆買い」している様をテレビニュースで目にしました。

 

そのニュース内で、帰国前の中国人観光客に、今回の旅行で使った金額をインタビューしてみると、300万円はざらでなんと2000万円は使ったという人がいました。

 

やっぱり中国人は桁違いに金持ちだ。景気がいいし、どんどん金を使ってくれる。それに比べていまの日本人は・・・と思った人は、まさに思考の罠にはまりこんでいるのです。

 

では中国人は、なぜ日本で大量の買い物をするのでしょうか。金持ちだからだろうか。

 

それは違います。彼らは、金が余っているから日本に来ているのではなく、欲しいものがあるから日本に来ているのです。中国人が欲しいと思うものが日本にはたくさんある。

 

ちなみに、旅行者一人当たりで見ると、一番支出額が多い国は中国ではありません。平均すると、一番目がオーストラリア人(約19万5千円)で二番目がフランス人(約19万3千円)、中国人は三番目(約19万円)です。(出典:「訪日外国人の消費動向」平成25年度版 国土交通省観光庁)

 

マスメディアによる刷り込みは恐ろしい。訪日する中国人はみな何百万円も使っていると思い込まされていますが、全体の数では及ばないものの、中国人より金を使う観光客がいることを知っておく必要がある。しかも、中国人と欧米人では、日本で金を使う対象が異なっています。

 

それでは、日本人は財布のヒモが固くてなかなか買ってくれないので、政府も観光立国を推進しているのだから、外国人に受け入れられる商品やサービスを考えて提供していけばいいのかというと、それは短慮に過ぎる。

 

では、我々はだれを対象に商品を作るべきなのでしょうか。

 

答は案外と簡単で、日本人が欲しいものを作ればいい。

 

それは、国内消費を押し上げるために日本人受けする必要があるという意味ではありません。これまで日本人が欲しいものを作ってきた結果、いま外国人観光客の欲しいを刺激している現実があるからだ。

 

少子高齢化が進む日本などにかまけていないないで、グローバリゼーション全盛の世の中なのだから、世界に目を向けなければならないと考える人もいるでしょう。

 

その通りでしょうが、だからこそ日本人が欲しいものを作った方がいいのです。日本人が欲しいと思うものの中には、いずれ世界でも必ず売れるものがある。

 

ただし、現に欲しいものがないから金を使わない日本人向けに、これから欲しがるものが何かを考えるのは、独立した重要なテーマになるので別の回にあらためて触れたいと思います。 

 

さて、こうした日本の現状を踏まえて、経営の方向性を打ち出せているかどうか、いまいちど問い直していただきたい。