貧困と貧乏の違いを新たに定義する

コラム「格差社会ではなく国民総貧乏化が進む日本」において、ピケティは資本主義先進国では格差が拡大して「貧困」が問題になっているが、日本の場合は、高所得者の割合は増えない一方で、中間層が解体されて低所得層に移行しているため、「貧困」ではなくて「貧乏」が日本の課題だ、という話をしました。

 

格差社会ではなく国民総貧乏化が進む日本

 

「貧困」と「貧乏」というよく似た言葉がテーマになるのですが、この2つの言葉は一般的には以下のように定義されています。

 

「貧困」とは、主に経済的な理由によって生活が苦しくなり、必要最低限の生活をしている状態。

「貧乏」とは財産や収入が少なくて生活が苦しい状況をいうが、貧困より困窮してない状態。

 

一般的な定義はそれとして、別の切り口で「貧困」と「貧乏」の違いを勝手に定義すると、「貧困」は経済的問題で、「貧乏」は心理的問題になります。

 

日本には本当の意味での貧困は存在しない

日本では世帯の年間所得が200万円以下だと「貧困」に類別されます。

 

一方世界に目を向けると、家族1人あたりが1日1ドル以下で生活している世帯(5人家族なら、年収でおよそ1800ドル以下)の数は、およそ12億人で世界人口(68億人)の約17%います。さらに1日2ドル(240円)以下の生活者になると、世界の約半数(30億人)にまで増えると算定されています。

 

1日200円程度しか収入のない家庭環境に生まれた子どもは、どれだけ個人的努力を積み重ねても、どれほど才能があっても、親と同じ境遇から逃れることは事実上不可能です。その意味で、これを「絶対的貧困」といいます。

 

したがって、日本における一世帯年収200万円の経済状況は「絶対的貧困」に該当しません。

 

その支出に教育費が含まれ、収入が主に賃金労働によって得られているなら、この先家族の誰もが努力によって知的能力を高めたり、各種スキルを身に付けたり、業務上の能力を評価されて昇給昇進したりする可能性が残されているからです。

 

屋根と壁のある家に住み、定期的収入が確保されていて、教育機会や結婚出産機会が提供されており、その上で相対的に金が少ないという状態を「貧困」とは言うことはできません。

 

貧乏とは貧困を抜け出した先にある心の病

「友達はBMWに乗っているけど、俺は軽自動車である」「お隣さんは夏休みにハワイへ行ったのに、うちは常磐ハワイアンセンターである」「あの店ではロマネコンティを飲んでいる人がいるのに、私は居酒屋でホッピーである」というように、所有物のうち同一カテゴリーに入るモノを比較した時に、相対的劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのです。

 

近代以前には「貧乏」は存在してなかったので、農民が大司教の装束と自分の衣服を比較して恥じ入るとか、木こりが王侯貴族のような城館に住んでいないことを気に病むことはありませんでした。

 

なぜなら、社会的棲み分けが行われていたからです。猫がライオンを見ても「あんなに大きくなりたい」とは思わないのと同じことです。

 

貧困は大昔から存在した状態ですが、貧乏は「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」と宣言したフランスの『人権宣言』によって、はじめて出現した状態なのです。

 

「生まれながらに平等であるはず」であるにも関わらず、権力や財貨や情報の所有において現に個人差があります。それを「苦しみ」として感じるのが「貧乏」です。つまり、「貧乏」とは近代市民社会が生み出したあだ花と言えます。

 

「貧乏」とは、自分が特定の何かを所有していないという事実によって生まれるのではなく、他人が所有しているものを自分が所有していないという比較行為をすることで、はじめて感知される欠如感であるという特徴を持っています。

 

日本は高度経済成長を経て、「貧困」から抜け出して豊かになったけれど、「貧乏人」はむしろ増えたのです。

 

『見栄講座』と『金魂巻』が象徴する「貧困」から「貧乏」への移行

バブル景気前夜の時代に発刊されて当時話題になった本に、『見栄講座』(1983年ホイチョイ・プロダクション)と『金魂巻』(1984年渡辺和博)があります。

この2冊の本が歴史上エポックメイキングな存在である理由は、日本人の多くが貧困から抜け出した代わりに貧乏を感じ始めていた世相を見事に表していたからです。

 

特に渡辺和博氏が『金魂巻』にて「〇金(まるきん)」「〇ビ(まるび)」という二分法で、「ビンボ臭い」というのはどういう振る舞いを示すのかを論じてベストセラーになったことは、もはや社会問題としての焦点が、「貧困」から「貧乏」に移行しつつあることを示したと言えます。

 

この本の副題が「現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造」となっているように、作中で「イラストレーター」「コピーライター」「ミュージシャン」など先端的でお洒落(と見なされている)職業に就いている人たちの「〇金」「〇ビ」識別法をアイロニカルに教え示しています。

 

年収の多寡はもうここでは識別指標ではなくなっています。なぜなら、「〇ビ」の特質は「他人のメンタリティを羨む」というメンタリティそれ自体だからです。

 

クリエイティブでイノベーティブな「〇金」の人々は自らの規範に従い、自分の欲望に忠実です。一方、模倣的で追従的な「〇ビ」の人たちは、他人の欲望に感染します。

 

したがって、『金魂巻』など読んで「〇金」と「〇ビ」の識別法を学習しようとする態度それ自体が、「〇ビ」であることの特質を端的に表しているのです。

 

明確な処方箋がある貧困 VS 治療の処方を持たない貧乏

1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」という宣言とともに、日本が中進国から飛び立ったあとの社会において、貧困はもはや深刻な社会問題ではなくなりました。

 

もちろん貧困な人々は依然として存在していますが、貧困問題とは言い換えれば社会保障制度のもとで「税金をどう使うか」という行政上のタスクに過ぎません。公正で優秀な役人がいさえすれば理論的に十分にマネージ可能な問題です。

 

一方で、貧乏の方は、理論上も処方箋を持たないという意味で、日を追って重大な社会問題となっていると思います。

 

なぜなら、貧乏は記号的な性質を持っているために、治療の処方が難しいからです。

 

貧乏は己の相対的劣位を感知し、自分は「貧乏だ」と規定する自己意識が生み出しています。

 

政府がどれだけ税金を投じても、その自己意識を持つ「貧乏人」を富裕にすることができません。

 

彼らはどれほど富裕になっても、自分の財布から税金を払って「貧乏人を富裕にしてやった」納税者たちに対する相対的劣位に苦しむことを止めることができないからです。

 

資本主義経済の発展のために不可欠な貧乏人の存在

誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできません。そして、大変困ったことに、資本主義市場経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのです。

 

市場は消費者が「私は貧乏だ」と思えば思うほど栄えます。実際は富裕でありながら、なお自分は貧乏だと思い込んでいる人間こそ市場にとって理想的な消費者です。

 

だから、企業もメディアも、消費者に向かっては「あなたが当然所有してしかるべきものをまだ持っていない」という言い回しで欲望を喚起することを止めません。

 

ナイーブな人々はその囁きをそのままに信じて、おのれの財政状態に関わらず「私は貧乏だ」と考えて苦しむことを止めません。そのようにして資本主義は今日まで繁昌してきたのです。

 

もし人々が一宇の草庵を結び、庭に自生する草花を食み、囲炉裏に薪をくべ、草笛を吹き、詩を吟じ、朋友と数合の濁酒を酌み交わして清談をすることに深い喜びを見出すようになれば、日本経済はたちまち火の消えたように萎み、瞬く間に日本は後進国へなり果ててしまうでしょう。

 

他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身の中から浮かび上がってくる「自前の欲望」の声に耳を傾けることの出来る人は、それだけで既に十分に豊かと言えます。

 

なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えませんが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからです。

 

自分はいったいどのようなものを食べたいのか、どのような肌触りの服を着たいのか、どのような気持ちで一刻一刻を過ごしたいのか。そのような具体的な問いを一つ一つ立てることの出来る人は、求めるモノの「欠如」を嘆くことがあっても、「貧乏」に苦しむことはありません。

 

日本社会はこのような能力の開発のためにほとんど投資をして来ませんでした。そのようなものにリソースを投じたら経済成長が鈍化することが分かりきっているからです。

 

インスタグラムでリア充を競い合うという最近の風潮も「貧乏人」気質を象徴しています。

 

このように、貧乏意識の高さは、「万人が平等」であるという市民社会原理のコストであり市場経済の駆動力でした。

 

しかし、将来への明るい展望が持てなくなった現在では、日本人の意識はどんどん貧乏になっていっても、資本主義がますます繁昌する時代ではなくなるというジレンマが発生しています。