1 二種類の経営者

多くの経営者の方話をしていると、十人十色で人柄も性格も様々であることが分かる。

 

しかし、そうは言いながらも、大きく分けると二種類の経営者がいる。

 

一つ目は、自信に満ち溢れた経営者であり、二つ目は、自らの能力不足を嘆き悩んでいる経営者である。

 

ただし後者の経営者とてプライドはある。表向きは強気な発言をしていることが多いが、言葉の端々に本音が無意識に現れていることから、それと分かる。

 

経営者であれば、自信に満ち溢れた社長になりたい(あるいはなるべきだ)とほぼ全員が思っているはずだ。

 

巷に流布している経営者のリーダーシップ論においても、経営者と自信は切ても切れない関係として語られている。

 

でも、誤解を恐れずに私見を申し上げると、自信に溢れた経営者ほど危険な存在はいない。

 

本当のところ、「能力のない経営者ほど自信にあふれ、本物の実力を持つ経営者ほど自らの能力に疑いを抱いて悩んでいる」のだ。

 

2 「学び」の本当の意味

もう少し厳密に言うと、問題の本質は「自信」の有無にはない。自信がもたらす効用にある。

 

自信は、「自分を信じる」という言葉の意味からして、当然に自己肯定という効果をもたらす。

 

そして、困ったことに自己肯定をする者には、「学び」の質的低下という課題が生じるのだが、当の本人はそのことに気付かない。

 

学生時代から経営者になった今に至るまで、「学び」とは重要で頻繁に現れるキーワードだが、起源的な意味で「学び」を定義するとこうなる。

 

 

学びとは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性を持っているかを言えないところから始まるもので、

 

”自分が何を学んでいるのかを知らず、その価値や意味や有用性を語れない”というその事実こそが、学びを動機付けている。

 

 

つまり、学びとは時間軸を持った現象ということだ。

 

「学び」が無い状態から、「学ぶ」という行為を通じて、はじめて「学び」を会得した状態へ到る。

 

したがって、ある「学び」が無い状態の人にとって、その「学び」の価値を正当に評価することはできない。

 

もし可能だと主張するなら、あなたが手にしたものは「学び」ではなく「知識」に過ぎない。

 

子どもが学校に入って、国語や算数を習うとき、当の子どもは自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始めのときには言えない。

 

でも言えなくて当然であり、むしろ言えてはならない。

 

学びとは、本来こういうもののはずだ。

 

3 「学び」と「成長」の関係

だからこそ、学びは「成長」をもたらすのではなないだろうか。

 

学ぶとは、学ぶ前には身に付けていなかった物差しによって、学びの意味や価値が事後的に認知される。そのような時間軸を伴った動的なプロセスだからだ。

 

学び始めたときと、学んでいる最中と、学び終えたときでは学びの主体そのものが別の人間であるということが、成長そのものを意味しており、学びのプロセスに身を投じた者の運命なのだ。

 

本当の学びは必ず成長をもたらし、同時に学びを伴わない成長はない。

 

4 企業や事業が成長するとは?

経営者は、企業や事業の「成長」を常に考えている。

 

しかし、そもそも「成長」に対する基本的な定義を等閑(なおざり)にしたまま、成長戦略などという言葉を振りかざしてはいないだろうか。

 

多くの経営者は、成長をこう考えている。

 

売上が増えること、利益が増えること、店舗数が増えること、従業員数が増えること・・・。

 

だがこれらは、外形的な変化に過ぎず、まるで子どもの身体的変化を語っているかのようだ。身長が伸びた、体重が増えた、足のサイズが大きくなった・・・。

 

たしかに、身体的変化を通じて子どもの成長を感じることもあるだろう。

 

しかし、子どもの成長をしみじみと感じるのは、できなかったことができるようになったとき、責任感のある言動をとったとき、他人の面倒をみるようになったとき・・・などの質的な変化を目の当たりにしたときのはずだ。

 

質的な変化の裏には、必ず学びが存在しているからこそ、「学び始めたときと、学んでいる最中と、学び終えたときでは学びの主体そのものが別の人間である」という由縁からくる成長を強く感じるのだ。

 

人間でも企業でも、成長の意味は根本的に変わるところはないと思う。

 

だとすると、企業の成長とは、図体を大きくするという外形的要素を目指すものではなく、成長の結果は、外形的要素のみで評価されるべきものではないだろう。

 

組織として、「何を学んだのか」「学びによって何がどう変化したのか」という視点によって成長を定義することが、企業における成長を考察するときのスタート地点であることを強調しておく。

 

5 経営者の成長が企業の命運を握っている

企業としての成長はイコール質的な変化だとすると、その質的変化をもたらすキードライバーは間違いなく経営者自身の成長だ。

 

たまにこんなことを宣う(のたまう)社長を見かける。

 

「いやぁ-、うちの社員はできが悪い者ばかりで困っているんですよ。先生にお願いして、うちの社員を鍛え直してもらいたい」

 

社長の思いとは裏腹に、この会社が成長を図るために必要なことは、社員研修をすることではない。社長自身が成長することだ。そのために、当然「学び」が必要になる。

 

しかし、こういう社長に限って、依頼を受けた専門家が社員研修の具体的提案をすると「これってどんな意味があるんですか?」とか「これをすると何の役に立つのですか?」という質問を投げ掛けてくる。

 

また、社員研修よりもっと経営の基幹に関わる話、たとえば ”企業としての真の強みの明確化” ”ビジネスモデルの再構築” ”財務シナリオづくり” などの話に対しても、「それをする意味は何ですか?」という切り返しが来る。

 

子どもであろうが社長であろうが、いま手持ちの価値スケール(物差し)では決して測定できないものが、世の中には無限と言ってよいくらい存在する。

 

昨今学校でも、授業中に私語を止めない生徒に対して静粛に授業を受けるように諭すと「この勉強をして何の役に立つのか?」という問いを投げ掛けられて、教師が絶句することがあると聞く。

 

生徒の側は、「何のために役立つんだ?」という問いが、教師を絶句させるほど革新性と批判性が高いことをもってして、ある種の知性の証なのだと思い込んでいる節がある。

 

あらゆる機会に「だから何の役に立つのですか?」と問い掛け、満足が得られる答を得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。

 

しかし、この切れ味の鋭さそのものが、子ども自身の成長を妨げているということは、当の子ども自身には決して自覚されることはないのが悲劇だ。

 

これは年端もいかない子どもだけに限った話ではない。

 

学ぶこと、学ぶことを通じて成長することを追求していく以上、社員であろうが社長であろうが、若かろうが年寄りだろうが共通して陥る危険な罠である。

 

でも、経営者としては反論もあるだろう。

 

そもそも、専門家から受け取るサービスに対して貨幣をもって対価を支払う商行為を行っている以上、経済学の基本原則である等価交換が成り立つ必要がある。

 

だから、支払う対価に見合う価値があるかどうかを当然に判断をせざるを得ない。まあ、こういう話だ。

 

モノを購入するだけなら、こうした考え方は正しい。だが、成長を期する投資を行う場合の判断としては筋が良くない。

 

「何の役に立つのか?」という問いを立てる経営者は、ことの有意性についての当人の価値観の正しさをすでに自明の前提にしているからだ。

 

有意であると俺が決定したものは有用であり、無意であると俺が決定したものは無用である。確かに歯切れの良い決断力だ。

 

では、「俺」が採用している有意性の判定の正しさは、誰が保証してくれるのだろうか。

 

当然、「何の役に立つのか?」というプラグマティックな問いを下支えしているものは、自己決定・自己責任論だ。

 

社長である以上、自己決定をする必要があるのは当然だろう、という主張だ。

 

自己決定したからには、自己責任を負う必要がある。

 

だから、最終的には俺が責任を取るのだから、今ここで俺の価値観でものごとを決めて何が悪いというマインドが生まれるのは想像に難くない。

 

自信に満ち溢れた経営者ほど、現在の自分の物差しに信頼を置いている。しかし、その副作用として、「学び」の質の低下を招く。

 

学びの質が低下すれば経営者の「成長」のスピードは鈍り、最終的には企業の「成長」も終わる。

 

企業再生にも長年携わって来た私が断言する。多くの企業の転落の構図とは、要約すると全てこの流れで起きている。

 

6 専門家にも大きな責任がある

ここまで経営者の方々の抱えている課題を一方的にあげてきたが、実は士業、コンサルタントなどの専門家(プロフェッショナル)側にも課題がある。

 

専門家と言えどもビジネスに参加するプレーヤーである以上、自ら提供する価値を分かりやすく示すことで、等価交換が容易に成立するような努力を当然に行っている。

 

その努力はある程度まで必要なことは認めるが、その努力が行き過ぎると、「こうすれば楽に売上が伸び、儲けが倍増するよ。簡単カンタン!」と語るプロが現れる。

 

しかし、経営には無限の段階があり、完璧な経営能力を体得することはできない。

 

この理を、経営分野におけるプロであれば肝に銘じていて、経営者へ必ず伝えるべきだ。

 

経営に携わるプロであれば、「この道を甘くみたらアカンで」というのが、経営者へ告げる第一声だ。

 

そう言わずに、「経営なんか、こうすれば誰でもできるよ。簡単カンタン!」と語るプロがいたら、その人は似非であるか、何か危険な下心を持っていると思った方がいい。

 

この違いとは、前者は「スキルや方法論というツール」を提供し、後者は「成長のために不可欠な学びの重要性」を提供していることから生まれている。

 

ゴールを簡単に示すプロは、「あなたの会社は他社と同程度のレベルに達した」ことをもって評価する。

 

しかし、本物のプロは「あなたの会社は他社とどう違うか」ということをもってしか評価しない。

 

その評価を行うために、前者は「これで十分」という到達点を具体的に示し、後者は「これで十分ということはない」として到達点の存在を否定してみせる。

 

経営という同じ領域のことを教えていながら、「これが出来れば大丈夫」ということを教えるプロと、「学ぶことに終わりはない」ということを教えるプロの間には、想像以上の隔たりがある。

 

なぜなら、前者の教えは成長を終わらせ、後者の教えは成長の加速度を倍増する結果をもたらすからだ。

 

7 企業経営にゴールはない

企業経営という領域において、私がコンサルタントとして伝えたいことは、経営に「これだけできれば十分」という到達点はない、ということだ。

 

半世紀の経営経験があろうが、いくつもの会社を経営しようが、MBAを取得しようが、経営に「これでおしまい」というゴールはない。

 

だから、経営者が経営を学ぶに当たり具体的な到達点があると思っている間は、まだまだ初心者の域を脱していない。

 

経営を学ぶとは、有用な知識や技術を身に付けることがゴールではない。

 

どこまで行っても究極の経営がないことを知ることにこそ、学びの効用があるのだ。

 

世の中には、「これだけ出来れば十分」という「わかりやすさ」を売り物にしている「先生」方もたくさんいらっしゃるが、それはあくまでも先生方のマーケティング上の都合に過ぎない。

 

でも、本当のプロならば「これだけできれば十分」などというウソを付いてはいけない。

 

まさか本気で「これだけできれば十分」だと考えている先生がいれば、決して敬意を得ることはないだろう。

 

同様に、世の社長達も、経営者としての成長を持続的に達成する学びを忘れてはならない。

 

そのためには、自らの現在の物差しだけでことの是非を判断しないことが肝要だろう。

 

では、最後に何を根拠に学びを得る機会を創出したらよいのか?

 

その答は、表層的なスキルや方法に目を奪われることなく、自分自身の根源的なこだわりや価値観を研ぎ澄まして、その部分で共感できる人物と巡り会うことだ。

 

そうそうれば、現時点で等価交換の見通しが立たなくても、学びのプロセスに身を投じることができるはずだ。