自信がある経営者と自信がない経営者

経営者は、個性豊かな人が多いのですが、あえて2つのタイプに分けてみます。

 

一つ目は、自信に満ち溢れた経営者であり、二つ目は、自らの能力不足を嘆き悩んでいる経営者です。

 

ただし後者のタイプの経営者であったとしてもプライドはあります。

 

だから、表向きは強気な発言をしていることが多いけれど、言葉の端々に無意識に現れている弱気が相手に伝わるのです。

 

経営者であれば、自信に満ち溢れた社長になりたい(あるいはなるべきだ)とほぼ全員が思っているはずです。

 

世間一般のリーダーシップ論を見ても、経営者と自信は切ても切れない関係があるとされています。

 

でも、自信に溢れた経営者ほど危険な存在はいません。

 

本当のことを言うと、「能力のない経営者ほど自信にあふれ、本物の実力を持つ経営者ほど自らの能力に疑いを抱いて悩んでいる」のです。

 

時間軸を持った変化のプロセスが「学び」だ

もう少し厳密に言うと、問題の本質は「自信」の有無にはありません。自信がもたらす効用にあります。

 

自信は、「自分を信じる」という言葉の意味からして、自己肯定という効果をもたらします。

 

しかし困ったことに、自己肯定をする者には「学び」の質的低下という課題が生じます。ただし、当の本人はそのことに気付きません。

 

学生時代から経営者になった今に至るまで、「学び」とは重要で頻繁に現れるキーワードですが、起源的な意味で「学び」を定義するとこうなります。

 

学びとは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性を持っているかを言えないところから始まるもので、「自分が何を学んでいるのかを知らず、その価値や意味や有用性を語れない」という事実こそが、学びを動機付けている。

 

つまり、学びとは時間軸を持った現象なのです。

 

「学び」が無い状態から、「学ぶ」という行為を通じて、はじめて「学び」を会得した状態へ到る。

 

したがって、ある「学び」が無い状態の人にとって、その「学び」の価値を正当に評価することはできません。

 

もし可能だと主張するなら、あなたが手にしたものは「学び」ではなく、それは「知識」です。

 

子どもが学校に入って、国語や算数を習うとき、当の子どもは自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始めのときには言えません。

 

でも言えなくて当然であり、むしろ言えてはなりません。

 

学びとは、本来こういうものであるはずです。

 

真の「学び」があって可能になる「成長」

だからこそ、学びは「成長」をもたらすのです。

 

学ぶとは、学ぶ前には身に付けていなかった物差しによって、学びの意味や価値が事後的に認知される。そのような時間軸を伴った動的なプロセスだからです。

 

学び始めたときと、学んでいる最中と、学び終えたときでは学びの主体そのものが別の人間であるということが、成長そのものを意味しており、学びのプロセスに身を投じた者の運命です。

 

本当の学びは必ず成長をもたらし、同時に学びを伴わない成長はない。

 

企業や事業の成長も外形的な要素だけでは測れない

経営者は、企業や事業の「成長」を常に考えています。

 

しかし、そもそも「成長」に対する基本的な定義を等閑(なおざり)にしたまま、成長戦略を考えようとしてはいないでしょうか。

 

多くの経営者は、成長をこう考えています。

 

売上が増えること、利益が増えること、店舗数が増えること、従業員数が増えること・・・。

 

だがこれらは、外形的な変化に過ぎず、まるで子どもの身体的変化を語っているかのようです。身長が伸びた、体重が増えた、足のサイズが大きくなった・・・。

 

たしかに、身体的変化を通じて子どもの成長を感じることもあります。

 

しかし、できなかったことができるようになったとき、責任感のある言動をとったとき、他人の面倒をみるようになったとき・・・などの質的な変化を目の当たりにしたときの方が、より子供の成長をしみじみと感じるはずです。

 

質的な変化の裏には、必ず学びが存在しているからこそ、「学び始めたときと、学んでいる最中と、学び終えたときでは学びの主体そのものが別の人間である」という由縁からくる成長を強く感じるのです。

 

人間でも企業でも、成長の意味は根本的に変わるところはありません。

 

だとすると、企業の成長とは、図体を大きくするという外形的要素を目指すものではなく、成長の結果は、外形的要素のみで評価されるべきものではないでしょう。

 

組織として、「何を学んだのか」「学びによって何がどう変化したのか」という視点によって成長を定義することが、企業における成長を考察するときの重要なスタート地点なのです。

 

経営者の成長が企業の命運を握っている

企業としての成長はイコール質的な変化だとすると、その質的変化をもたらすキードライバーは間違いなく経営者自身の成長です。

 

たまにこんなことを口にする社長がいます。

 

「いやぁ-、うちの社員はできが悪い者ばかりで困っているんですよ。先生にお願いして、うちの社員を鍛え直してもらいたい」

 

社長の思いとは裏腹に、この会社が成長を図るために必要なことは、社員研修をすることではありません。

 

社長自身が成長することが先ず必要です。そこには、当然「学び」が伴います。

 

現在の物差しで成長を伴う取り組みを評価してはいけない

しかし、こういう社長に限って、依頼を受けた専門家が社員研修の具体的提案をすると「これってどんな意味があるんですか?」とか「これをすると何の役に立つのですか?」という質問を投げ掛けてきます。

 

また、社員研修よりもっと経営の基幹に関わる話、たとえば「企業としての真の強みの明確化」「ビジネスモデルの再構築」「財務シナリオづくり」 などの話に対しても、「それをする意味は何ですか?」という切り返しをしたがります。

 

子どもであろうが社長であろうが、いま手持ちの価値スケール(物差し)では決して測定できないものが、世の中には無限と言ってよいくらい存在します。

 

昨今学校でも、授業中に私語を止めない生徒に対して静粛に授業を受けるように諭すと「この勉強をして何の役に立つのか?」という問いを投げ掛けられて、教師が絶句することがあると聞きます。

 

生徒の側は、「何のために役立つんだ?」という問いが、教師を絶句させるほど革新性と批判性が高いことをもってして、ある種の知性の証なのだと思い込んでいるのでしょう。

 

あらゆる機会に「だから何の役に立つのですか?」と問い掛け、満足が得られる答を得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。

 

しかし、この切れ味の鋭さそのものが、子ども自身の成長を妨げているということは、当の子ども自身には決して自覚されることはありません。

 

これは年端もいかない子どもだけに限った話ではないのです。

 

学ぶこと、学ぶことを通じて成長することを追求していく以上、社員であろうが社長であろうが、安易に「何のために?」という問いかけをする危険な罠にかかってはいけません。

 

でも、経営者としては反論もあるでしょう。

 

そもそも、専門家から受け取るサービスに対して貨幣をもって対価を支払う商行為を行っている以上、経済学の基本原則である等価交換が成り立つ必要がある。

 

だから、支払う対価に見合う価値があるかどうかを当然に判断をせざるを得ない。

 

モノを購入するだけなら、こうした考え方は正しい。しかし、成長を期する投資を行う場合の判断としては正しくありません。

 

「何の役に立つのか?」という問いを立てる経営者は、ことの有意性についての当人の価値観の正しさをすでに自明の前提にしているからです。

 

有意であると俺が決定したものは有用であり、無意であると俺が決定したものは無用である。確かに歯切れの良い決断力です。

 

では、「俺」が採用している有意性の判定の正しさは、誰が保証してくれるのでしょうか。

 

責任を負っている経営者だからこそ独断に陥る危険がある

当然、「何の役に立つのか?」というプラグマティックな問いを下支えしているものは、自己決定・自己責任論です。

 

「社長である以上、自己決定をする必要があるのは当然である」という気持ちがあります。

 

同時に「自己決定したからには、自己責任を負う必要がある」とも考えています。

 

だから、最終的には俺が責任を取るのだから、今ここで俺の価値観でものごとを決めて何が悪いというマインドが生まれるのです。

 

自信に満ち溢れた経営者ほど、現在の自分の物差しに信頼を置いている。しかし、その副作用として、「学び」の質の低下を招くというジレンマに陥ります。

 

学びの質が低下すれば経営者の「成長」のスピードは鈍り、最終的には企業の「成長」も終わります。

 

企業再生にも長年携わって来た立場から言うと、多くの企業の転落の構図とは、要約すると全てこの流れで起きています。

 

真のプロは経営のゴールを教えない

ここまで経営者の方々の抱えている課題を一方的にあげてきましがが、実は士業、コンサルタントなどの専門家(プロフェッショナル)側にも課題があります。

 

専門家と言えどもビジネスに参加するプレーヤーである以上、自ら提供する価値を分かりやすく示すことで、等価交換が容易に成立するような努力を当然に行っています。

 

その努力が必要なことは認めますが、その努力が行き過ぎると、「こうすれば楽に売上が伸び、儲けが倍増するよ。簡単カンタン!」と語るプロが現れる。

 

しかし、経営には無限の段階があり、完璧な経営能力を体得することはできません。

 

この理を、経営分野におけるプロであれば肝に銘じていて、経営者へ必ず伝えるべきです。

 

経営に携わるプロであれば、「この道を甘くみたらアカンで」というのが、経営者へ告げる第一声である必要があります。

 

そう言わずに、「経営なんか、こうすれば誰でもできるよ。簡単カンタン!」と語るプロがいたら、その人は似非であるか、何か危険な下心を持っていると思った方がいいでしょう。

 

この違いとは、前者は「スキルや方法論というツール」を提供し、後者は「成長のために不可欠な学びの重要性」を提供していることから生まれています。

 

ゴールを簡単に示すプロは、「あなたの会社は他社と同程度のレベルに達した」ことをもって評価します。

 

しかし、本物のプロは「あなたの会社は他社とどう違うか」ということをもってしか評価しません。

 

その評価を行うために、前者は「これで十分」という到達点を具体的に示し、後者は「これで十分ということはない」として到達点の存在を否定してみせます。

 

経営という同じ領域のことを教えていながら、「これが出来れば大丈夫」ということを教えるプロと、「学ぶことに終わりはない」ということを教えるプロの間には、想像以上の隔たりがあるのです。

 

なぜなら、前者の教えは成長を終わらせ、後者の教えは成長の加速度を倍増する結果をもたらすから。

 

企業の成長に学びは不可欠で、真の学びにゴールはない

企業経営という領域において、私がコンサルタントとして伝えたいことは、経営に「これだけできれば十分」という到達点はない、ということです。

 

半世紀の経営経験があろうが、いくつもの会社を経営しようが、MBAを取得しようが、経営に「これでおしまい」というゴールはありません。

 

だから、経営者が経営を学ぶに当たり具体的な到達点があると思っている間は、まだまだ初心者の域を脱していないのです。

 

経営を学ぶとは、有用な知識や技術を身に付けることがゴールではありません。

 

どこまで行っても究極の経営がないことを知ることにこそ、学びの効用があります。

 

世の中には、「これだけ出来れば十分」という「わかりやすさ」を売り物にしている「先生」方もたくさんいらっしゃるが、それはあくまでも先生方のマーケティング上の都合に過ぎません。

 

でも、本当のプロならば「これだけできれば十分」などというウソは吐きません。

 

まさか本気で「これだけできれば十分」だと考えている先生がいれば、決して敬意を得ることはないでしょう。

 

同様に、世の社長達も、経営者としての成長を持続的に達成する学びを忘れてはなりません。

 

そのためには、自らの現在の物差しだけでことの是非を判断しないことが大切です。

 

では、最後に何を根拠に学びを得る機会を創出したらよいのか?

 

その答は、表層的なスキルや方法に目を奪われることなく、自分自身の根源的なこだわりや価値観を研ぎ澄まして、その部分で共感できる人物と巡り会うことです。

 

そうそうれば、現時点で等価交換の見通しが立たなくても、学びのプロセスに身を投じることができるはずです。