問題が生じることによって自説の正しさが証明される矛盾

先日、ある忘年会の席で、情報セキュリティ専門家M氏と話をする機会がありました。

 

M氏は、ある有名な大手企業をクライアントにしていますが、先方の取組姿勢に不満をお持ちのようでした。

 

話を聞いてみると、その企業は情報セキュリティ上の大きな問題点を潜在的に抱えているにも関わらず、その危険性をM氏が何度指摘しても、本腰を入れて抜本的な改革に着手せずに、表出した枝葉末節な問題に対処するに留まっているとのことです。

 

そして、M氏はこう付け加えたのです。

 

「何度言っても分からないのだから、一度ニュース沙汰になるような重大な情報漏洩事件を起こして、社長が謝罪をするような事態になればいいんですよ。そうでもならなければ、変わらない」

 

私は、このM氏の話をうかがって、はたと気付いたことがあります。

 

正直なところ、企業規模の大小や業種の違い、さらに課題の種類に関わらず、潜在的な大きな危険への取り組みを先送りにして、顕在化した小傷への対処療法だけで済ませていることは、ほぼすべての企業において見られる慢性的な病ですから、M氏の話を聞いても驚くところはありません。

 

ところが、「一度ニュース沙汰になるような重大な情報漏洩事件を起こせばいいのに」という発言は、注目に値します。

 

ちょっと不謹慎と思える発言ですが、M氏と私は初対面ではないうえに、お酒が入った忘年会の席ということもあって、気心しれた相手に対する本音として、このM氏の言葉が出て来たと思います。

 

しかし、このM氏の語法は、多くの人が心の中で思っているが言葉にはしない本音という点では、それほど珍しいわけではありません。

 

例えば、原発反対派の方は、こういう意見を主張します。

 

「また大規模な地震や津波が発生して、福島第一原発のような事故が別の原発で再び起きたら、取り返しのつかない事態になる」

 

また、TPP反対派の方は、こういう意見を主張しています。

 

「TPPに参加すると、日本が誇る国民皆保険制度が崩壊して、お金がなければ医療を受けられずに人が死んでいく社会になる」

 

さらに、改憲派(特に第九条)で国防軍の必要性を説く方は、こういう意見を口にします。

 

「中国や北朝鮮が、突然攻めてきたらどうするつもりだ」

 

(あらかじめ断っておくと、たたま取り上げた「原発」「TPP」「改憲」について、私個人の意見とはまったく関係なく、単なる語法として例示しているだけです。)

 

こうした主張は、ある意味「正論」です。

 

当然、こうした正論を口にする本人も、「私の主張することは間違いなく正しい。だから人々は聞き入れるべきだ」という信念を持っているはずです。

 

だた、「正論」を好み、自説の正しさが承認されることにこだわる人は、本人が気付いているかどうかは別として、自らが危惧している事態が発生することを心のどこかで願っているところがありやしないだろうか。

 

なぜなら、原発稼働の危険性を証明するのに、第二の福島第一原発事故の発生以上に確実なものはないし、TPPによる国民皆保険制度の崩壊を証明するのに、TPPへ参加して実際に保険制度が瓦解する以上に確実なものはないし、国防軍の必要性を証明するのに、隣国が実際に離島に上陸して不法占拠を開始するという事実こそ、いかなる論理やデータよりも自説が正しかったことを雄弁に証明するであろうからです。

 

もちろん当の本人は、国を憂い国民を憂えて、現在の状況や問題に対して意見を述べ、反対を唱えているに違いないでのすが、一方で、本人にとって望ましい状況とは、「○○原発で事故発生!」とか「医療費は激減したが死亡者数が急増!」とか「尖閣諸島に中国軍が上陸し、海上保安庁と対峙中!」といった緊急ニュース速報が飛び込んできて、自説とは異なる意見を述べる者たちが、顔面蒼白になって絶句するという場面に違いありません。

 

なんとも不思議なことです。

 

極論を覚悟のうえで言えば、正論家の正しさは「社会や国がいまより悪くなること」によってしか証明できません。

 

だから、皮肉なことに、正論家は必ずや「社会や国がいまより悪くなること」を無意識に望むという矛盾に陥るのです。

 

「正論家」は「原理主義者」や「教条主義者」でもある

正論家は、ある意味「原理主義者」とか「教条主義者」であるとも言えます。

 

「原理主義者」という言葉は、最近イスラム教徒が関わるテロ事件などの報道でよく使われています。

 

でも、今ひとつ何を意味するのか分からない場合が多いのではないでしょうか。

 

アメリカの次期大統領であるトランプ氏は、イスラミック・ステート(IS)を壊滅すると宣言しています。

 

大統領に就任した暁に、具体的にISに対して軍事行動を強化すれば、報復のためのテロが起きる可能性はきわめて高いはずです。

 

「あなたは、暴力的ですぐに怒る人ですね」と言われた人が、「ふざけるな。それは不敬な妄言だ。取り消せ」と案の定怒り出した場合、どのように扱えばいいのでしょうか。

 

「暴力的で短気だ」と分かっている相手をわざわざ怒らせることは、日常生活のレベルで考えても、あまり賢明とは言えません。

 

一方で、「あなたは暴力的ですぐに怒る人ですね」と言われて、まんまと怒り出すのは、その「不敬な妄言」が図星であることを自ら認めることに他ならないから、やっぱり賢明とは言えません。

 

こういう場合は、相手を怒らせる方も、怒らせることを狙って仕組まれたことで怒り出す方も、どっちもどっちで賢いとは言えません。

 

こう言われて、「どちらが賢いかどうかではなく、これは正義の問題なんだ。重要なのは正しいか正しくないかだ!」とイキる人が必ず出てきます。

 

はい。こういう方のことを「原理主義者」と言います。

 

宗教的な意味合いとは関係なく、「功利」や「解決」にこだわるのではなく、「正しさ」にこだわる人は、ある意味すべて「原理主義者」であり、自らが信じることに対する「教条主義者」なのです。

 

「理屈っぽい」ではなく「論理的である」とは

正論家にして原理主義者の人は、なぜ自説の正しさを強烈に信じ主張できるかというと、論理的に突き詰めたからということもありますが、「だって、そうする方が正しいし良いに決まっているでしょ」と決め打ちになっていることが多々あります。

 

つまり、リソースは無限であることを前提に、至純にして最高のものを求める傾向が強いのです。

 

新自由主義を信奉するネオリベラリストが、「自由貿易と市場原理に任せた経済が、どの時代でも状況でも普遍的に正しい」と語るのは、典型的な正論家にして原理主義者と言えるでしょう。

 

でも、現実の企業や経営、あるいは生活の中では、閉じられた世界、有限の時間、限られた資源の中で、相対的によりましなものを手当てすることの方が重要なのです。

 

自分では、誰よりも理詰めでものを考えられると思っていますが、そういう人は「論理的」ということと「理屈っぽい」ということの違いが分かっていません。

 

論理的に思考するというのは、いま自分が手慣れて利用している考え方をいったん機能停止させるところからスタートします。

 

いま自分が手慣れて利用している考え方とは、自分にとっては自然で当たり前と思えるような経験や思考の様式のことを指します。

 

いま目の前にある問題を取り扱うのに、自前の考え方だけでは埒があかないということは、少なくともその問題の解決のためには、いまの自分の考え方が使いものにならないことを意味します。

 

それは、往年の漫画「プロゴルファー猿」でなければ、ドライバー一本で18ホールを回るのが不可能なことと同じです。

 

バンカーにボールが入っているのに、ドライバーだけを握りしめていても始まりません。その場合、ドラライバーを置いて、さっさとサンドウェッジに持ち替えないといけません。

 

論理的に思考するとは、詰まるところ、ドライバーを捨ててサンドウェッジに持ち替えることなのです。

 

ゴルフを例えにしていると、バンカーからボールを打つのにドライバーを使う人など99%いないので、ドライバーだけに固執することなどあり得ないと思うことでしょう。

 

でも、論理的思考においては、自前の道具に執拗にこだわり続ける人が、驚くほどたくさんいます。

 

そういう人を、「理屈っぽい人」と言います。

 

「理屈っぽい人」は、ホール毎に設計が異なり、自分の打ったボールのライがまちまちなのに、18ホールをドライバー一本で済ませようとします。

 

反対に「論理的な人」は、ドライバーにはこだわらず、状況に応じて使えるクラブの可能性をすべて考えて、スコアメイクしようとします。

 

場合によっては、「逆打ち」を試みたり、右打ちを左打ちに変えたり、道具について、それが常識的に蔵している使い方とは違う使い方を常に探り続けているという特徴があるのです。

 

最近、「垂直思考」に対して「水平思考」の大切さがクローズアップされていますが、結局のところ、「垂直思考」とは自前の考え方にこだわる思考方法であり、「水平思考」とは自前の考え方を一度棚上げにして、新たな補助線を探したり、他人の考え方に想像的に同調することで、はじめて可能になる思考方法なのです。

 

企業における「改革」を進めるときに大切なこととは

企業組織において、「改革」の必要性は常に意識されています。

 

でも、一度でも「改革」に手を染めた人なら分かることですが、「改革」ほどうまく進まないことはありません。

 

改革がうまく進まない理由は、いくつもあるでしょうが、その大きなものの一つに、「改革の必要性を説く人ほど正論家が多い」という事実を見逃すことはできません。

 

「その他大勢の人より、自分の方が色々なことがよく見えている」という人だからこそ、「改革」の必要性にいち早く気付くことができます。

 

しかし、その他大勢の愚衆に対し、理路を正して「このまま船を走らせたら、氷山に激突するよ」というような話をいくら繰り返しても、「海は穏やかだし、天気も良いから、そんな心配しなくても大丈夫じゃない」「見晴らしがいいから、仮に氷山があっても事前に気付くでしょう」などという腑抜けた反応しか返ってこないと、まるで自分だけが大騒ぎをしている間抜けのようで、我慢がならなくなります。

 

企業の改革活動においては、改革の必要性を主張する「正論家」とそれ以外の人々の間に、大きな温度差があることそれ自体が、改革の必要性を担保しているとも言えますが、理詰めで改革を主導すると、遅々として進まない状況に対して、自説の正しさを証明するためのカタストロフィの発生をどこかで願うという気持ちが生まれます。

 

そして、心のどこかで「じゃ、好きにすればいいじゃないか」「俺の考えが正しかったことが証明されて、苦労すればいい」というように思い、危機の実現を願う気持ちが芽を出し始めるのです。

 

ここで、話はまだ終わりません。

 

企業における「改革」の話が厄介なのは、幸いなことに「改革」の必要性が受け入れられて実行されると、やっぱり予言していた危機は訪れなくなります。(それは、当然のことなのですが。)

 

ところが、「あなたの言うとおりに改革を行ったので、無事に危機を回避することができました」と感謝されるかというと、そうでもなく、「やっぱり、何にも起きませんでしたね」くらいのことを言われてしまうことがあります。

 

引っ張る傾向が強い右打者の癖を読んで、二塁手があらかじめベースの真後ろに守備位置を変更しておけば、センター前に抜けてヒットになる打球が、セカンドゴロがにしかなりません。

 

でも、横っ飛びで捕球したとか、スライディングキャッチしたといった派手なプレーとは異なり、そういうプレーは決してファイン・プレーとは呼ばれないのと似ています。

 

こうした「正論家」のルサンチマンが、逆に企業における「改革」を危うくすることが、少なからずあるということを有能な「正論家」は自覚しておく必要があります。

 

また、他人より視野が広く、いろいろなものが見える人は、正鵠を射抜いた「正論」を導き出すことが多いのですが、その正論にこだわり過ぎることで、かえって単に「原理主義者」で「理屈っぽい人」になる危険性が生じます。

 

能力の高い人ほど、自前の道具に自信を持っているものですが、一度、自分の道具の限界の存在を知るとともに、「プリコラージュ」的な思考や仕事の進め方を身に着けたら鬼に金棒ではないでしょうか。