米国大統領選の候補者が持つ「何でも知っている」という共通点

本日2016年11月9日は、彼の国ではアメリカ合衆国の第45代大統領を決するための選挙が行われています。

 

日本時間午前11時10分の段階では、クリントン vs トランプの選挙人票数は97 vs 129で、トランプ氏が序盤戦では若干リードしています。

 

今回のアメリカ大統領選におけるクリントン氏とトランプ氏の戦いを、「最低」と「最悪」の戦いと揶揄している人もいますが、自分が投票行為をする立場になったことを考えると、たしかに究極の選択を迫られている気持ちになります。「カレー味のウ○コ」か「ウ○コ味のカレー」かみたいな話です。

 

今回の選挙戦は、特に後半になると個人的なスキャンダルを攻撃し合う泥仕合の様相を呈して来て、まともな政策論争が希薄になった感がありますが、あらためて二氏の政策を対比すると、多くの分野で主張が対立しています。

 

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(出典:時事ドットコムニュース 2016年7月29日)

 

このように、項目によっては正反対の政策を掲げている二氏ですが、この場で政治の話をする気はありません。

 

私は、この二人を別の理由で注目しています。

 

その理由とは、政策は異なり性別も違うけれど、リーダーシップのあり方または演じているリーダー像が、古式ゆかしい王道のスタイルだという点で、結局は似た者同士だということです。

 

二人とも、「これからの世界の動き」を「私は分かっている」ことを微塵も疑っていない点で共通し、その予測を前提に「米国がどの方向へ進んでいくべきか」についても「私は分かっている」という強い確信を持って政策を提言している点でも共通しています。

 

でも、「これからの世界の動き」が本当に分かっているなら、それを前提にして合理的に導き出されるはずの米国のとるべき道が、ここまで正反対になるのはおかしな話です。

 

なぜ、こうも正反対のことを二人とも自信満々で主張しているのか?

 

「確信」と「信念」が欠ける者がリーダーになれない事実

おそらく、お二方とも「これからの世界の動き」など分かっていません。ただし、大統領選に勝つためには「何を言うか」よりも「どのように言うか」という態度の方がより重要ということを、本当の意味で確信しているからでしょう。

 

2004年9月30日、ジョージ・W・ブッシュ大統領とジョン・ケリー議員による第一回大統領候補討論会において、ブッシュ氏は、ケリー氏がイラク戦争に関する立場を変えたことについて非難して、こう攻撃しました。

 

 

私はこの世界がどう回っているか知っている。

 

合衆国大統領は、確信をもって政治をめぐる話合いを進めなければならない。

 

必要とあれば戦術は変更するが、信念は決して変更しない。

 

世界の中でこの国を守るために必要な戦略的信念は。

 

 

ケリー氏は、この攻撃に対する反論として、事実を冷静に認め、それに応じて政策を修正する方が得策であることを主張し、「確信」が足元をすくう危険性を指摘しました。

 

この二人の選挙戦の結果がどうなったかは言うまでもありませんが、ブッシュ氏が再選されました。

 

その後ブッシュ大統領は、自分の主張の確実性と説得力を示したいという欲望があったからこそ、大量破壊兵器が存在するという確信に基づき、イラク戦争の開戦を宣言したのです。

 

自信満々なリーダーは民衆の期待像から生まれる

だからブッシュ氏はアホだとか、同様にトランプ氏はボケだとか、私たちは言いたくなりますが、彼らは単に私たち大衆の期待に応えて役柄を演じているに過ぎません。

 

問題の真因は、大統領候補者にあるのではなく、民衆の心の中にあるのです。

 

私たちは、「偉い人」「強い人」を求める習慣が小さいころから身に染みついています。

 

何か問題に直面したとき、それを解決できる誰かが側にいてくれると信じたいのです。

 

自分が確信を持てないとき、つまり自分の中に不確実性を見るときほど、人はリーダーへの依存傾向を強めます。

 

実は何度となく期待をして失望を味わい、そんな期待はかなわないことも経験から知っているにも関わらず、誰かが難局を救ってくれると思いたいのです。

 

その結果、リーダーは答を知っていて、問題をすべて解決出来る人間であることを態度で示さなければならなくなります。

 

日本の政治の世界も似たり寄ったりのところがあります。

 

隣国の人々からは疎まれ、国内でもいろいろ批判がありながら安倍晋三首相が長期政権を維持しているのも、野党第一党の民進党総裁村田蓮舫氏が国籍に関わる問題で嘘を塗り重ねながら居座っているのも、リーダーとしての強い態度を示せているからです。

 

政治の世界だけに留まらず企業においても、リーダーというものは「確信」に満ち溢れ、問題解決のための「答え」を知っているべきだと、無意識に信じ込んでいます。

 

これまでの世の中では、こうしたタイプのリーダーが求められていたのでしょうが、「変化のスピードが加速し続け」「変化自体を読み切れない」これからの時代において、果たして同じタイプのリーダーのままでよいのでしょうか?

 

「知っていること」が問題解決に役立たない変化の時代

人間の脳が最適な機能を果たすためには確信が必要である。そして、人間の脳は、常に答を求めている。

 

この癖は、悲しい人間の性(さが)です。

 

しかし、「変化のスピードが加速し続ける」とは、すでに知っていることが日々変化するということを意味します。

 

アメリカ人科学者レイ・カーツワイルは、現在の科学進歩のスピードについて、20世紀の進歩と同じだけの進歩を現在は14年で成し遂げ、その次は7年に短縮されると指摘しています。

 

つまり、21世紀の進歩は20世紀になし得た進歩より1000倍速いのです。

 

これまでの時代、私たちは、知識が増えれば増えるほど、自分が知れば知るほど、分からないことや知らないことは少なくなると信じていました。

 

理屈としては間違いではありませんが、積み上げた知識の総量は増えたとしても、変化のスピードが加速し、知り得ることの全体像が無限である以上、既知の知識が問題解決に役立つ保証は、昔以上に少なくなる一方です。

 

「未知の未知」まで視野を広げるのが次世代リーダーの資質

先ほど取り上げたブッシュ大統領のイラク戦の話に戻りますが、2002年2月、当時国務長官であったドナルド・ラムズフェルド氏は、イラクにおける大量破壊兵器の証拠不在について、次のような説明をしました。

 

 

「既知の既知」というものがある。我々が知っていると我々が知っていることだ。

 

一方、「既知の未知」というものがある。我々が知らないということを我々が知っていることを指して言う。

 

だが、それ以外にも、「未知の未知」というものがある。我々が知らないとうことを我々が知らないことを意味する。

 

 

イラクの大量破壊兵器の証拠が見つからない事態に対して、「既知の既知」だけで批判されても困る、「既知の未知」に過ぎないだけなのかもしれないし、もしかすると「未知の未知」だから証拠が発見できないだけなのかもしれない。

 

こういうニュアンスで、ラムズフェルド氏は上記の発言をしたと推察します。

 

苦し紛れの言い訳なのですが、一方で私たちが現代社会において直面している課題をとても正確に描写しています。

 

実は、ラムズフェルド氏が上げた3つ以外に「不可知の未知」というものもあります。この意味は、我々が知り得ることができないこを知ることができないことになります。

 

私たちは、「既知の既知」の問題ではつまづくことはまずありません。知っていることや分かっていることに対応するための前例やメソッドがあるからです。

 

問題が、「既知の未知」である場合も、それほど深刻な事態ではありません。知らないことが分かっているのだから、時間の経過とともに解決策は見つかるだろうし、自分に知識がなければ、それを知る人を活用すればいいだけだからです。

 

普通に教育を受け一般的な教養を身につけている人々は、組織や集団において問題が発生したとき、対象を分析し要素に分解し改善が必要な要素に対して施策を講じるというやり方を、唯一無二でアプリオリな手法だと信じて疑っていません。

 

しかし、こうした要素還元的手法は、20世紀初頭に科学的管理法の父と呼ばれているフレデリック・テイラーが生み出した、近代の考え方に過ぎません。

 

当然、これまでのリーダーシップ論は、テイラー主義を前提としおり、リーダーは答を知っている、専門家は問題を解決できると考えています。

 

ところが、この手法は「未知の未知」の領域においては、力を発揮することが出来ません。

 

20世紀の経営管理手法もリーダーシップ論も「既知の既知」と「既知の未知」の領域においてのみ、論理的で迅速な意思決定や競争優位の確立に役立っていましたが、変化のスピードアップとともに「未知の未知」の領域が与える影響が大きくなってきた複合的な状況においては、まったく無力です。

 

これからのリーダーは、本当は「知らないこと」や「分からないこと」だらけなのに虚勢を張り、周囲の人々からの全能性への期待に応えるために「私は答を知っている」と自信満々の態度で組織をリードし問題の解決に当たることを止めるところからスタートして、リーダーの役割を考える必要があります。

 

「分かりません」と言える人間は無能ではなく真の自信の持ち主

科学の世界では昔から、「分かりません」は「私は自信があります」と同義語であると、スペインの科学者フランシス・ペレスは語っています。なぜなら、自分の知っていることと知らないことを、必ず区別して話せる能力があるという意味だからです。

 

ところが、ビジネスや政治の世界では、「分かりません」は全く正反対の意味を持ちます。それは、「私は無能で、この仕事に向いていません」と同義語になってしまうのです。

 

だが、ビジネスや政治の世界でも、ソクラテスの無知の知「私は私が無知であることを知っている」を思い出す必要があります。

 

これからの時代、真に優れたリーダーをこれから目指すのならば、「知らない」と口に出すのを怖れずに、既存の知識を疑い新しい発見に目を開き、発展や変化へのすき間を作り出すために「無知の知」は不可欠な資質です。

 

「既知の既知」の世界だけで、論理や知識に溺れることなく、「未知の未知」さらには「不可知の未知」が存在し大きな影響を及ぼす可能性を考慮に入れて、計画の緻密さに力を注ぐよりも、不測の外力を受けてもしなやかにいなしてすくっと立ち続ける竹のような組織とは何か、あるいはビジネスとは何かを考え、常に空白部分を許容し無理やり知識で埋めたくなる誘惑に抵抗しながら、新たなアイデアや気付きを生み出していく。

 

そんな「これからの」リーダーを目指していきたいものです。