都知事選の候補者は似たもの同士

7月31日の投票日に向けて、東京都では候補者達が選挙活動の真っ最中であることは、多くのマスメディアが伝えるとおりです。

 

先日参議院議員選挙が終わったばかりですが、1年に1回くらいは議員選挙やら首長選挙があるので、40代以上の人ならば投票者として相当な経験を積んでいるベテランのはずです。

 

なのに現実は、特定の党派に深く帰依している人以外は、「選択」という行為に難しさを感じることが多いはずです。

 

最近は、三権分立という中学生が学ぶ基本をすっかり忘却の彼方に置いて来てしまった人が多く、立法府で法案の成立に関わる仕事である議員と、行政府で法案の執行に関わる仕事である首長とを区別せずに公約を掲げる候補者ばかりで、選挙公報を眺めると暗澹たる気持ちになることがあります。

 

それはともかくとして、議院内閣制を採用する日本では、国のトップである内閣総理大臣は直接選挙では選ぶことができないので、東京都という国に匹敵する規模のメトロポリス(GDP規模は世界で14位、予算規模はインドネシアと同等)のトップを直接選挙で決める都知事選挙では、前知事である舛添要一氏がいみじくも口にした「トップリーダー」の資質が大いに問われることになります。

 

そこで今回は、東京都知事選を契機として、企業の経営者にも通じるリーダーシップについて考えてみます。

 

まず、「東京都知事選 選挙公報」というA4版全6ページの資料を読んでみました。

 

この6ページの中に候補者21人が1/4ページのスペースを与えられて、公約やら主張を書き込んでいます。

 

一定のフォーマットがあるわけではなく、各人が与えられたスペースを自由にレイアウトして使用してよいらしいのですが、印刷してみると老眼が進んでいない若者であったとしても、ほぼ判読不明なほど細かい文字で埋め尽くされていて、ほとんど読むことができません。仕方がないので32インチのモニター画面で拡大して読むことになりました。

 

これで本当に、選挙公報を読んでもらいたいと考えているのか大いに疑問が残りますが、一通り目を通して分かったことは、有名な候補者も無名な候補者もリーダーとしてのタイプは同じだということです。

 

もちろん、このコラムは政治論談をする場ではないので、個別の公約の内容は問題にしていません。

 

あくまでも、リーダーとしての物事の捉え方や思考のスタンスを見た場合の話をしています。

 

では、どこがどう同じだと言えるのでしょうか。

 

都知事選の候補者が持つ2つの共通点

全ての候補者に、大きく分けて2つの共通点がありますが、一つ目は、「何かを変えよう」とか「何かを直そう」という考え方や発想を持っている点です。

 

こう言うと、「おいおい、そういう考え方は、むしろ真っ当であって、どこに問題があるんだ?」と思う方がいることでしょう。

 

疑問はもっともだと思いますので、順を追って説明していきます。

 

一部のぶっ飛んだ主張をしている候補者の方を除くと、彼らは一様に「過去からの学習」をしています。

 

言うなれば、これまでの都政の結果を振り返って、自らの政策を立てているということを意味します。

 

したがって、過去の都政の分析が、次の行動の根拠となっているため、そこには常に「なぜそれを行うのか」という理由づけや正当性が担保されています。

 

一例を挙げると、「都知事報酬はゼロにします」とか「都知事報酬を半減します」とか掲げている候補者が多いのですが、こういう公約が出てくる理由は単純です。

 

猪瀬直樹氏、舛添要一氏と2代に渡って、「政治と金」の問題から辞職を余儀なくされたために、都知事は「政治と金」についてはクリーンでなければならないという学習をした結果、都知事になりたい理由は金目当てではないという姿勢を見せるために、報酬について言及しているのです。

 

それが証拠に、今回の都知事選以前に、知事報酬をゼロにしますという主張をしている候補者はいなかったはずです。

 

東京都には、将来の俯瞰的な青写真や豊かなビジョンなどというものは不必要で、目先の細々とした問題点を発生ベースで粛々と解決していけばよく、東京都知事とは、都職員16万人という巨大組織を合理的かつ効率的に管理運営していく手腕こそが重要だという主張をしている候補者ならば、「過去からの学習」を重視してもいいでしょう。

 

ところが、そういう主張をしている候補者は一人もいません。

 

「これまでの都政はダメだから、これからの都政を変えていかなければならない」という構図は、具体的な内容に違いはあれど、基本的に全候補者が採用しています。

 

「あなたに都政を取り戻す」

「すべの都民にあたたかさと夢あふれる東京に」

「都民が決める、都民と進める」

 

これら3つのスローガンは、主要とされている候補者の方のものですが、スローガンの裏には「今までは、それが出来ていない。だからそのように変えなければならない」という前提が隠されています。

 

そこで、さらに詳細に目を移すと、あまりにも漠然とした公約を掲げているか、逆にあまりにも対処療法的な細かい政策を提言していることが分かります。

 

つまり都政には大きな変化(≒革新)が必要だと主張しながら、そのやり方はあくまで、問題の原因を「誰か」や「何か」にあると捉えたり、自分の視野に入る言動の「何か」にあると捉えて、それを変えようとするレベルに留まっているのです。

 

なぜなら、当の本人たちは、そうした「何かを直そうとか、変えようという発想や考え方自体が限界を生んでいる」ということに気付いていないからです。

 

二つ目は、都政をジグソーパズルのようなものと考えている点です。

 

それは、あるべき理想像を描き、そのゴールに向かって適切な手順を設定すれば、解決できる問題だと、都政を捉えていることを意味します。

 

世の中には、このタイプの課題はたくさんあります。

 

たとえば、料理、家の建築、車の整備、ちょっと大きいものだと北朝鮮が力を入れているロケット打ち上げなどです。

 

ただし、問題をジグソーパズル的に扱って良いための条件が2つあります。一つは、漏れなくダブりなく問題全体を論理的にさらに細かい要素に分割可能であること。

 

二つ目は、分割された各要素が相互に影響されることがなく、それぞれ独立した課題として手を打つことが可能であることです。

 

こうした考え方は、17世紀に確立された「機械的世界観」と「要素還元主義」を二つの柱とした近代科学の知的パラダイムの中にどっぷりとハマっているとも言えます。

 

機械的世界観とは、「世界は、いかに複雑に見えようとも、結局は、一つの巨大な機械である」という発想にもとづく世界の見方です。

 

そして、要素還元主義とは、「何かを認識するためには、その対象を要素に分割・還元し、一つ一つの要素を詳しく調査したのち、結果を再び集めればよい」という考え方です。

 

ただし、ジグソーパズル的な問題の捉え方は、いつでも役立つわけではないので、それが有効に働く対象であるかどうかを、冷静に見極める必要があります。

 

結論を申し上げると、都政のような3次元的に絡み合った課題は、ジグソーパズルのように使用するパーツの全てを、目の前に広げられるほど単純ではありません。

 

色々な要素が複雑に絡み合っているため、原因をたぐれないばかりか、とりあえず何らかの手を打つと必ず、バタフライエフェクトのように様々な方向に想定外の影響をもたらしていきます。

 

このタイプの課題を、ジグソーパズル型と対比してルービックキューブ型と呼ぶことがあります。

 

ルービックキューブがジグソーパズルと比べて一筋縄では扱えない訳は、「6面の色がそれぞれ同色で揃っていること」というあるべき理想の姿は明確なのに、ある一面を見てとった打ち手が、必ずしも前進したことにはならないところにあります。

 

たとえば、黄色の面を揃えようとすると、先ほどせっかく完成した青色の面が崩れてしまうということが同時に起こります。

 

すなわち、あるべき理想像に向けて、良かれと考えてやったことが、他の要素に影響を与え、結果的に理想像から遠のいたり、最終的に過去の打ち手を後悔することになるのが、ルービックキューブ型の問題の特徴です。

 

リーダーとコンサルタントの違い

ちなみに、コンサルタントと呼ばれている人種は、前段で提示した都知事選の候補者が持つ2つの特徴を武器に仕事をしている人々です。

 

「過去からの学習」をして、ベストプラクティス(最善慣行)を明らかにしたものをメソッド(手法・方法論)としてまとめ、それを他の企業に適用するという仕事のパターンを好んで採用しています。

 

また、問題は全て要素還元できるという信念を強く持ち、本当はルービックキューブ型の複雑怪奇な問題であったとしても、ジグソーパズルとみなして力業で要素分割してしまい、「こんな問題解決は簡単だ」と豪語する先生方がたくさんいます。

 

(私は、多くのコンサルタントの方々と、その辺りの考え方を同じくしていないので、コンサルタントというアイデンティティが希薄です。)

 

そういう意味で、都知事選の候補者は等しく、コンサルタント的な立ち位置で公約やら政策を考え表明している人だと言えます。

 

別にコンサルタント的なスタンスが常にダメだと言いたい訳ではありません。

 

コンサルタントは、その企業からしてみると部外者であるという立ち位置が維持されているがゆえに、自分の言動の影響力が限定的に留まり、問題点を簡素なジグソーパズル的に捉えることが可能なのです。

 

そして、分析的な手法により過去を振り返って、この先の打ち手を考えることが出来ます。

 

だから、首尾一貫した取り組みが可能だという限りにおいて、少なくともコンサルタント本人に葛藤(コンフリクト)は発生しづらいのです。万が一、想定された成果が上がらなければ、その原因をクライアント企業の中に別の問題が存在すると指摘すれば済むからです。

 

しかし、コンサルタントとしては優秀だった者が、事業会社に転職して、その会社の問題解決をコンサルタントお得意の手法で進めようとしても、成果が上がらないうえに自らの無力感に苛まれるということがよく起きます。

 

その理由は、本来ルービックキューブ型の問題については、自分が当事者になった瞬間に、自身が問題を取り巻く環境に影響を与える因子と化し、問題の及ぶ範囲や状況変化をキャッチすることが難しくなるからです。

 

また、問題の原因を自分の外部に求めても解決に繋がらず、その逆で「自分が変わろう」と殊勝に考えて行動しても、当事者としての振る舞いの機微を理解していないために、ことごとく裏目に出ることになります。

 

量子力学の世界では「観察者効果」と呼ばれている課題があります。それは簡単に言うと、観察するという行為それ自体が、観察しようとする現象に変化を与えてしまうことを指します。

 

同様に、社会科学的な世界である政治や経営の分野でも、自分が問題の当事者になった途端に、自分自身が問題へ影響を与えるという可能性を知る必要があります。

 

優秀なコンサルタントが、企業における実務者として、当初は必ずしも期待されるほどの成果を上げられないことがある原因は、そこにあるのです。

 

このことは、私自身がコンサルタント会社から父親の会社へ移った後に、大いなる空回りをする体験をしたことで実感した事実です。

 

そこで都知事選の候補者に話を戻すと、コンサルタント的な語り口である点が共通していることに気付きます。その証左は、語り口の中に「都知事と都民」という枠組みを持っていることです。

 

だから「都知事である私が、都民の問題を解決する」のであり「都民の一人として、都民の問題を解決する」という姿勢を持っていないという点では、「国会議員なら、都知事なら、これくらい許される」と考えていた前知事の舛添要一氏と、同じ穴の狢と言えるでしょう。

 

誰が当選したとしても、こうしたコンサルタント的なスタンスを無意識に持っている限り、実際に都政に身を投じたときに、必ず大きな壁にぶつかり跳ね返されるはずです。

 

実際のところ、主要候補者と称されている有名人の掲げている公約は、相対的に既に恵まれた環境を手に入れている当人にとっては、切実な問題ではなさそうなものばかりなので、あくまでも自分も含めた問題ではなく、都民という他人の問題の解決にあたると考えたとしても不思議ではありませんが。

 

革新的なリーダーシップとは

さて、政治の世界では、昔から「保守」と「革新」という対立的な構図があります。

 

それぞれの意味は文字通り、古いものを保ち守ることに価値を置く人や集団を「保守派」と言い、古いものを改め、新しいものに変えることに価値を置く人や集団を「革新派」と言います。

 

経営の世界でも「革新」というキーワードは、停滞した市場環境が長引く環境下で、一つの流行のようになっています。

 

中小企業庁は、経営革新支援を大きな事業としていて、多数の経営革新支援機関を認定し、多額の補助金や助成金を用意して、経営革新計画書の策定を推進しています。

 

ところが、経営革新計画書によって本当に革新(イノベーション)が起きたとか、非線形な飛躍を果たしたという実例は寡聞にして耳にしません。

 

これからの時代、大小を問わず市場に確固たる領地を確保したいなら、文字通り「革新」を起こすことが必須条件であることは間違いありません。

 

ただし、「保守」に対する反対語という程度の意味合いで「革新」を捉えている限り、求められている「革新」は生まれてこないでしょう。

 

それは、ポジティブ思考が、所詮ネガティブ思考の表と裏の関係に過ぎないのと同じく、これまでの「革新」とは「保守」のアンチテーゼに過ぎないからです。

 

その証拠に、革新派はスローガンは勇ましくても、「過去からの学習」という手法を遵守し、問題をジグソーパズルのように要素還元出来るという思考の枠組みも遵守しています。

 

しかし真の「革新」とは、「過去から学習」以上に「これから出現する未来からの学習」を重視し、問題は簡単ではなく複雑でどこから手を着けて良いか俄には判断し難いという覚悟のもとでしか起こらないでしょう。

 

だから、ちょっとイケずに言うと、巷の「経営革新計画書」は、そもそも自己矛盾しています。

 

「革新」を起こすプロセスとは、ルービックキューブ的に複雑で、その全容が明らかになっていないことが多いため、あらかじめ何を行うべきかという答を具体的に知ることはできません。

 

また、その理論的裏付けも、どれだけ筋が通っているように思えても、単なる仮説に過ぎません。

 

したがって、過去の延長線上にないようなアイデアは、事前に計画を立てて生み出すことは出来ません。

 

仮に計画どおりに実現できる程度のものであれば、わざわざ計画書などつくらなくても、これまでに生み出せていたでしょうし、他の誰かが実現していた可能性が大いにありえるはずです。

 

整理をすると、真の革新的なリーダーシップとは、「過去からの学習」に依存せず、かつ問題を単純化せずに複雑さをありのままに受け入れる勇気を持つことが条件となります。

 

政治家と違って会社の社長は、立候補をして公約を発表し、辻演説をするというプロセスでその職位に就くわけではありませんが、仮に改めて選挙という方法で社長になると想像した場合、どんな選挙公報を自分で書くのか、都知事選を契機にして考えてみるのも悪くないと思います。

 

特に、実際の都知事選の候補者の選挙公報が褒められたものではないと思うなら、他人事にせずに当事者意識を持ちたいものです。

 

そのとき、自分の思考の癖をチェックしてみると、「革新」を起こすための準備が出来ているかどうかが分かるはずです。

 

具体的に、この「革新」をどのように生起させるかというテーマについては、また長い話になるので、別の機会に譲ります。

 

最後に、都知事選の話に戻ると、既にお分かりのとおり、思考の枠組みが同じ人が揃っています。

 

ですから、誰が都知事になったとしても、表面的な政策や公約に多少の違いはそれほど問題ではなく、良くも悪くも都政が大幅に変わることはないと個人的に思っています。ある意味安心でもあり、ある意味残念でもありますが。